柏崎を支援してきました

19年7月20日午後日野を出て柏崎に行き、22日夕方6時15分日野着、二泊三日でしたが実質は一日半の労働支援をしてきました。以下箇条書きで、状況をお知らせします。

■高速道路の状況、関越で長岡ジャンクションまで全く平常。そこから左折して北陸道を南下してしばらくすると、1車線の規制。西山を過ぎるあたりから高速道路の所々に段差があったり、波打っていたりするが、走行には問題ない。「支援車両」の上を車前方に張っておいたおかげか、高速道路の出口では料金を取られない。しかし帰り道のあきる野インターではしっかりとられた。「証明書がないと駄目です」といわれた。

■柏崎市内の道路、工事用車両、自衛隊車両で混んでいるが市内は狭いので渋滞というほどでもない。目に飛び込んでくる全壊家屋あり、歩道の段差、液状化による波打ちあり。私の知り合いの三井田議員の自宅は市役所のすぐ近く。だから一方通行規制があり、なかなかたどり着けなかった。

■三井田議員が中央町商店街まで案内。このとおりが一番被害が激しいとのこと。全壊家屋は瓦に押し潰された感じ、二階が一階にのしかかったような家も多数。道路、歩道の液状化が多く見られる。全ての家には張り紙があり「危険」、「注意」、「調査済」、と書かれている。危険という判定の家には入れない。越後線は線路の盛り土が崩れて、線路はぐにゃぐにゃに曲がっていた。いつになったら開通するのか全く不明。工事用の車両も来ていない。この下に断層が走っているのだろうか。

■三井田議員は携帯とインターネットを駆使して市民からの要望を聞き、手の足りないところに私等のような身元を証明できるしっかりした友人、知人を派遣して仕事をしてもらっていた。三井田議員の家の軒先にはブルーシートのテントが屋根になり、この下が私達の食堂と休憩所になる。三井田家の玄関先には井戸水が出るので助かる。余りにも冷たく綺麗な水なので、飲んでしまっていたが、後で聞いたら、飲用不適だそうである。地震のあとの井戸水は飲めないという常識を私は知らなかった。21日の夜は栃木市の職員数人がこのテントの下に寝泊りした。夜中から雨だったから、全然寝られなかったであろう。私も寝られなかった。車の中なのに。

■着いた日の夜から自衛隊の炊き出しが始まった。この町内には信太山の陸上自衛隊が来た。給養班は炊事車、給水者とそれを引っ張り、隊員を運ぶトラック等で総勢十台程度。給養班は大変だ。いつもいつも次の食事を何にしようかと考えているに違いない。私達は配食を手伝った。カレーライスのときは大人気で列の長さが途切れない。それにしてもここの人数は500人程度だという。そのうち80人は8丁目の人たちで80人分をまとめて取りにくるので、実際は420人分ぐらい。その一人一人が並ぶわけではなく、家族の代表が、鍋、タッパー、袋、お盆を抱えて取りにくる。「○○人分ください」というから200人位の相手をしたであろうか。我が日野市で地震が起こり、自衛隊の炊き出しが小学校校庭で行われたら、3000人は集まるだろうと思う。この柏崎商店街の6倍だ。

■位置関係。破壊状況の激しい中央町商店街の一本北側の道に三井田家があり、その家の前にブルーシートのテントがある。井戸がある。ちゃぶ台がある。道路沿いにはご自由に持っていってくださいと、彼の全国の友人からの支援の品物などを置いている。その三井田家のとなりの洋品店の前の駐車場に私の車は置かしていただいた。この三井田家と駐車場との前の4メートル道路を挟んで斜め前に閻魔堂という歴史的建造物がある。この外壁はだいぶ崩れていたが、トタンに囲まれていたのでその被害の程度は良くわからない。この閻魔堂のとなりに30台分ほどの駐車場が有り、ここの角に、商店街のテントが出来、残りのスペースに自衛隊の炊き出しの給養班が駐屯した。

■私の車は街宣にも使っている車なので、スピーカーが付いている。前方のスピーカーを後ろ向きに変えて高速道路を飛ばしてきた。座席は三列目がないので、荷台は広大で私は斜めになれば足を伸ばして寝ることができる。それに比べて乗用車で来た伊藤さんは運転席で寝たが寝返りもうてずに苦しかったであろう。

■三井田ボランティア隊。三井田議員のところには全国から彼の友人、知人がやってくる入れ替わり立ち代りだから、増えたり減ったりする。インターネットや口頭で伝えられた、応援希望の場所に私も含めて何人かを派遣する。日頃から自衛隊大好きで、柏崎港に海上自衛隊誘致を訴えている人だから、自衛隊にも知り合いが多い。市役所の対応の現状を掌握している。三井田隊のボランティアは少々危険な場所にも出動する。彼が言うには、安全で検査済の家ではものを持ち出さなくてもいい。危険な家にある大事なものを持ち出して欲しいのだと。なるほどそうだ。

■報道記者、カメラマン。三井田テントには記者やカメラマンやレポーターが顔を出す。彼は34歳なのに有名人だ。彼のおかげで色々な会社の人に会えた。あの不肖宮島さんも来た。NNN、NHK、フジ、日本工業新聞、等々記事のネタはないかと探し歩いている。「地震後10日目の柏崎市」というテーマを与えられ、何を取材しようか考えている人もいる。

■柏崎市は社民党が強い町だそうである。市民が支援しているからそうなのだろう。ということは自衛隊を嫌っていただろうし、自衛隊大好きの三井田氏は苦戦しているはずだ。なにしろ柏崎は蓮池さん夫妻が拉致されたところである。その拉致を手伝ったといわれる人も住んでいるという。自衛隊が災害派遣で来てくれて、初めて自衛隊のありがたさを理解したという人も多いだろう。そういう人はその感謝の念と共に、今まで自衛隊を毛嫌いしていたということを反省して欲しい。何十年かの間違いを反省して欲しい。

■私の応援。21日の仕事は上越市から来た望月さん親子と一緒で昔、回船問屋だった家の蔵と土蔵から大事は骨董品、文化財を救い出して欲しいというのがこの家の老夫婦。望月さんは建築業なのでのこぎり、バール、木槌、ロープ、ブルーシートは持っていた。まずこのご主人が崩れた蔵と土蔵の周辺を案内した。両方とも三階だったのだが、崩れて二階にしか見えない。幸い、左右にわかれて、崩れかけているのでこの間から上り、まず左の蔵の瓦を全てはいだ。瓦は重く、一枚ずつ屋根に銅線で括ってあるので外すのは大変だ。手の筋肉がなまってくる。雨模様なのでブルーシートを掛けで中の大事なものがぬれないようにする。いよいよこの両方の建物の中に、前は三階だった窓の部分が進入する。結局、午後3時ぐらいまでに手の届く範囲のものは全て取り出したのだ。刀が4本、槍2本、絵、写真、版画、土人形、古切手、写真、仏像、掛け軸、書籍、等々である。それらが地面に置かれる都度老夫婦は感謝の言葉。体は雨と汗と埃混じりの泥でぐっしょり、目の中にこの泥が入ってくるので痛い。この蔵と土蔵は22日にはユンボが崩すことになった。望月さん親子は22日も活躍したという。この現場を取材に来た某通信社の人は、我々の手が少ないと見ると手伝ってくれた。何と翌日には朝から手伝っている。

■物資の配分。柏崎市役所宛に届けられる大量の物資は海岸の日本通運の倉庫に入っていた。海上自衛隊の船が運んできたものが多いであろう。愛知県の会社が三井田さんの要望にこたえて送ってくれは麻袋もここに着いていた。この麻袋は、散乱したガラスを納めるのに一番よいからと頂いたものなのだが、この倉庫に着いてから、私達が22日に取りにいくまで誰も取りに行っていなかった。問題はこの集積場所から市役所裏の倉庫への物資の輸送であり、市役所倉庫からの市民への配送だ。商店街のテントまで運べは町内の助け合いで各家庭に配送されるだろうが、そこまで誰が運ぶかである。三井田議員はFMピッカラというローカルラジオ局に電話して、ガラスの片付けに有効な袋が市役所の倉庫に着いたので、必要な人は取りに行って下さいと放送を依頼したら、たちまち放送された。だが何人が実際取りにいったかは分からない。