3月議会の一般質問に対する市の答弁書に見る、その空想論、観念論その2
一般質問後に入手した答弁書と子育て課との協議で判った事(その答弁書、開く)
◆103/163が反対。 有効なパブリックコメント163、そのうち条例素案に反対は103 ということが判明した。
市はこの集計結果を重視すべきだ。
◆子供権利条例を既につくった地方自治体では、この条例のおかげで苛めや虐待が減ったという証拠を収集せよとの私の要求に対し、子育て課長は「収集する」と約束した。(3月6日)
◆「『子供を健全に育てていくために子供の権利を一層意識しなければならない』という市の考えは何故なのかということが分からない」との私の質問に対し、次のような論理で答弁した。答えになっていない。
(1)子供を健全に育成するため、教育し、しつけるとき
(2)幼児のときや社会のルールからのひどい逸脱のときは強制するときもあるが
(3)基本的には子供は意見表明権があり、尊重しなければならないが
(4)尊重すること=必ず実現させる、と言うことはない
(5)対話して、社会ルールを身につけ、主体的判断するよう手助けすることが
(6)子供を健全に育成行くことだ
つまり、「子供の健全育成は、子供の意見を聞き、尊重しつつ、対話のなかで社会のルールと主体的判断力を付けさせる事だ」としていることである。子供が意見表明権を振りかざして、自分の意見を通そうとしたときでも、対話が成り立つと思いこんでいる事は問題である。
何度も同じ例を挙げるが、子供が集団で校長を取り囲み「国旗を降ろせ」と叫び、その親や一部教師が「子供の意見表明権を尊重せよ」と気勢を上げたときどうするのか。対話は成り立たないし、社会のルールを守れなくなる。よって健全に育成することが出来ないのだ。
普通の子供なら、親や大人からしつけられたり、教育されているとき、反論することは当然ある。その反論に対し親や大人が全て受け入れることはない。だがこの反論を意見表明権という、条例に定められた権利として扱われることが問題である。単なる子供の不満や理不尽な口答えさえ、法律的に意味のある意見表明権として権威付けられてしまうのである。そのことに意を強くして子供の反論や口答えは親や大人への権利の行使となっていくのである。そうなると対話は組合交渉と同じ権利の主張のぶつかり合いの場となる。この結果、子供の側が折れたとしても、心から納得して了解したのではない。権利行使の挫折と受け取られてしまうのだ。
このように本来、親子の対話であるべきものが、親子の間の(暴力は伴わないとしても)口先の戦争となってしまうのである。そうなれば子供は社会のルールを進んで身につけることをしなくなる、
◆「策定の経過」、私の重大な策定過程の瑕疵があるという指摘に対し、市は「今回の素案は市が条例策定を目指して行く中で、大人会議において市民の意見を聞きながら、作成したものであり、大人会議が作成したものではありません」と答弁書にあるが、次の点で大人会議が条例素案を作る主体であったと私は考える。
●大人会議の議長は、市の職員ではなく市民側の人である。副議長も同じ。
●この議長の議事進行のもと素案は、前文から、一条づつ成文となっていった。
●成文の責任者は議長、副議長であり、市の職員こそ「意見を聞かれる立場であった」。
●この会議で出来上がったものが「日野市子供権利に関する条例案と逐条解説」であった。
◆大人会議のメンバーの氏名・住所は善意の同意を得て、公開されるという答弁であった。なるべく早く公開されることを希望するその際、大人会議の初回から最後まで通して参加した人だけを公開するのではなく、一回でも参加した人は公表するようにしてもらいたい。子育て課長はこれを了解した。(3月9日)
◆「立法措置を必要としない」という政府答弁にこの条例化は違反しているではないかとの私の指摘に対し、市は「政府見解のとおり、日野市子どもの権利条例素案に書かれているさまざまな権利は、憲法をはじめ、児童憲章などの現行法令によって保障されているものです。一方で子供への痛ましい権利侵害が顕著化してきています。子供の権利を保障し、守ることを市政の重要課題として施策を展開していくことを明らかにするために、子供権利条例を作っていきたい」と答弁している。この答弁に重大なトリックが隠されている。
●「政府見解のとおり子供権利条例素案に書かれているさまざまな権利は、現行法令で保障されている」との答弁である。私が聞いた、「現行法令で何か不足があるのか」という問いに、「現行法令で十分だ」と答えているのか。それなら条例は不要ではないのか。どうみても「現行法令で不十分だ」とは読み取れない。
●それなのに、条例を作るのは、現行法令の目指しているものとは別の目的を目指しているからである。つまり「子供への痛ましい権利侵害が顕著になってきつつあるとき子供の権利を守り・・・」としている。ここでもこの条例が出来上がれば子供への権利侵害(苛め、虐待、犯罪)が減るとの思い込み、希望を書いている。この希望は何の裏付けも無いのである。「条例を策定した他市の実績」を調査しようともしていなかったのだから。
●ところで「痛ましい権利侵害」の指す権利とは、どういう権利か、侵害されて痛ましいと思わせる権利のことだろう。それには「遊ぶ権利」、「ありのままの権利」、「個性や他の人との違いが大切にされ、自分らしく生きていく権利」「ほっとできる居場所を持つ権利」「休息する権利」「自分に関することについて自分の意見を言い表す権利」「自分で決める権利」「自分を守るために自分の意見を言う権利」「あらゆる差別から守られる権利」「子供であるという理由で不当な扱いを受けない権利」「プライバシーが守られる権利」「自分の意見が尊重される権利」「自分を表現する自由をもつ権利」「仲間を作り、仲間と集う権利」などではありえまい。これらの個別を権利をまとめている権利として「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」であれば、侵害されたら痛ましいとは言える。この痛ましい権利侵害が起こったとき、守られなければならない権利とは、「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」のことであるべきだ。これらを拡大解釈し、捻じ曲げて解釈してはならない。